ロンボク 地震 No.3 気がついたら被災者様の巻

…続き…

ギリアイルからのぼったくりの船が対岸のロンボク島バンサル港に到着する。いつもの見慣れた世界一?評判の悪い(地球の歩き方、ロンリープラネットにも記載がある程)バンサル港が沢山のツーリストで溢れている。ひょっとしたらツーリスト保護の空港行きバスやレンバル港(バリへのフェリー)行きのバスぐらい準備されてるかもしれないという私の甘すぎる期待は微塵も裏切られる。というのもギリアイルにたまたま来ていた友人の娘さん日本人家族を出発前にギリアイルで保護?して同行して来たからだ。私自身はルーンとロンボクで様子見する予定だったから必要なかったのだが。船に輪をかけた更にぼったくりのチャーター車が数台いるだけで朝から脱出した3島からのツーリストが全然、次の目的地に行けないで足止めを食らっていた。その中に3、4時間前に出発したold villageの客がいて、車の手配を頼まれたが私にもなす術は何一つなかった。バンサルに置いてあるバイクは従業員に使わせて家に帰らせたので、私自身は金で何とかする予定だった。しかし、折角、大きな地震と津波の可能性を避けるためにギリアイルを抜け出して来たのだから海岸沿いに何時間も留まっているのはアホくさいと思って、500mぐらい先にあるパーキングエリアまで歩いて行ってみることに。その道で初めてロンボクの惨状を見ることになる、、、見慣れたいつもの風景が消え失せ、倒れかけた家の山、残っている方が珍しいぐらいの光景だった。ギリアイルの数倍の被害状況だと一目でわかった、、、これでは当然、外国人に人員割いてる余裕はないだろう。結局はこのバンサルから隣接する街パマナンにかけての一帯が最大の被害であったらしい。その後、パーキングエリアで待つこと数時間、何とかたまたま来た空港行きボッタクリバス(1人4千円)に日本人家族を押し込んだ。実に5倍近い価格。バンサルマフィアが途中で露骨にピンハネしていた。後々さらに評判が落ちるねバンサル😖😖

その後、日本人家族の問題は済んだのでルーンの故郷タンジュンを目指す。重たい荷物を引きずってパマナン交差点までの2kmぐらいをルーン達と倒れそうな外塀を避けながら直射日光の中ひたすら歩く。モスクが屋根だけ落ちて下はペッシャンコにハンバーガー状態になってしまったのを目撃、衝撃を受ける。30人ぐらい埋まってたらしいと後々聞く。バカなことだが水を持ってくるのを忘れてしまった。空いている店は全くない。が昨夜から続いてる火事場のバカ力で華麗に乗り切る。その間に早くも壁恐怖症を発症してしまったけど。なんとかパマナンの街のいつもの交差点に着くがそこも戦後かっ!って感じ。なんとか運良くベモ(小型乗合バス)に乗れて一路タンジュンの街へ(ボッタクリなし!)。車の上から見る見慣れた風景はほぼ全滅、全壊状態だった。タンジュンまで15分、何とかタンジュンの公共サッカー場の避難場所にたどり着く。

(ブルドーザー投入、瓦礫撤去後のパマナン交差点風景、、、スッキリ。。)

さて、old villageを出発してから実に6時間かかって、やっと安全そうな場所に到着できた。ホッと一息。だだっ広い広場で沢山の警察やレスキューの車両、医療用のテント、果物販売の軽トラックがサッカー場にはすでに並んでいた。とりあえず果物と近くで開いていた倒れかけの店で手に入れた甘ったるいジュースとお菓子で飢えと渇きをいやす。でも飲料水だけは売り切れで全く手に入らなかった、、、災害時の飲料水は本当に重要だ、味や甘味のあるものは余計に喉が乾く。ルーンは前日の胸圧迫で呼吸が少し大変らしいので医療用テントに送り込む(後で聞いた事だが、テントの中はやはり死にかけ、傷だらけの人が大量にいて大変な状態だったらしい)。結局は大事無いという事だったが、ここまでの道程、荷物を持つことができなかった(役に立たん!) ルーンの治療の間、壁のない木陰で地面で寝転んで待ってたら、少しの間ウトウト寝てしまった、、すでに前日の朝から30時間ぐらい全く寝ていなかった。余震は断続的に数十回、続いていたと思う。でも変な達成感を感じつつ平和に眠った。

ルーンの治療も終わり、さあ、どこへ行こうか? とりあえずルーンのお姉さんが、娘、息子たちとルーンの実家の近くですでにキャンプを立ててるらしいので、電話連絡の上、そこにご厄介になることに。いつ在庫が切れてしまうかもわからないので、適当に果物、お菓子、タバコなどさらに買い込んでそこまで歩いて行くことに。バイクタクシーなど捕まえ様としたけど、うまくいかないので歩いた方が早い(ギリアイルの村長に会ったのはこの時である)歩いて約15分ぐらいの場所だ。途中ラッキーにも水を運ぶトラックに乗せてもらえて簡単に少し小高い丘になった場所のテントにたどり着く。すでに数件のグループがテントを張っていた。場所も清潔そうでさらに小高い丘も向かい側にある(何と日本軍の塹壕後だった!)ここならまず津波も大丈夫だろうと判断し、安堵する。いつまでいるのか分からないがここでこれから状況を見守ろう。そしてこれを書いている現在、未だここにいる。こうして、私の楽しくも切ない?被災者生活が始まったのである。。

…続く…

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